教えてくれる場所の罠 ~わかったつもりが一番危険~
我が子のお宮参りを週末に終えて、昨夜奥さんの実家から戻るときに、
運悪く、小田急線で起こった踏切事故に巻き込まれ・・・
結局、自宅には夜中の1時に到着なかなか疲れましたね~
気分を新たに、本日も、前回のブログに引き続き「育ちの差シリーズ」
前回は”先回りの落とし穴”について書きました。
本日は少し似ているかもしれませんが・・・
『教えてくれる場所の罠』 というお話。
つい最近のニュースで、文科省が、”ゆとり教育からの決別”を宣言する文書を
公表しました。これは、世の中の大きな流れや歴史の中でバランスをとる動きであり、
何かのレベルが行き過ぎれば、元に戻そうとする力が必ず働くので、
その程度の話だろうなと個人的にはとらえています
『ゆとり教育だから・・・』 『ゆとり世代だから・・・』と言ってしまえば簡単ですが、
最近、そういう時代の中で、人が成長するための、自立度を高めていくための
ちょっとした足かせになっているのではないかな~と感じているが、
”教えてくれる場所やサービスや人が
増えすぎたこと!!”
インターネット検索サービスが最たるものかもしれませんが、そのほかにも
世の中には、いわゆる”コンシェルジュ的なサービス”がたくさん提供されていますよね。
例えば、スマホさえあれば、あらゆる情報を一瞬に手に入れることができるわけです。
今週末で2歳になる我が家の長女も、最近は大人たちの隙をついては、
いつの間にか、iPhoneでYouTubeをサクサクと検索しては、いろいろな番組を
見ている始末・・・
もちろん、このような教えてくれる場所、サービスなどはものすごく便利で役に立っている
ことは間違いありませんし、自分も大変助かっているのですが、物事はそのような一面
だけではなく、それ以外の面も見ていくことが大切だと思っています。
私はこれを『多面的思考』と言っているのですが、教えてくれる場所やサービスが
生み出すもう一面は・・・・
”人が自分で考えて答えを生み出す時間の減少をもたらしていること”
ではないかな~と私は思っています。
ハングリー精神という言葉は、食べ物については使うことが多いかもしれませんが、
現代では、各種サービスの進化により情報が枯渇するということがないために、
情報や答えに対するハングリー精神が希薄になっているといいましょうか・・・
そんな今、どんな現象が起こっているかというと、
『どこかから拾ってきた情報を
そのまま自分の答えとする人が増えている』
つまり、答えを自分で導き出すのではなく、どこかにある情報という名の答えらしきものを
拾ってきて、それを自分なりの回答として人に伝える人が増えているということですね。
大学生がレポートをコピー&ペーストで作成するのは、昔からよくあることですが、
それもわかりやすい一例かもしれません。
知恵(智慧)には3段階の知恵があるそうです。
①聞慧(もんえ)・・・聞きかじっただけの知恵
②思慧(しえ)・・・上記に自分なりの解釈や思いを付け加えた知恵
③修慧(しゅうえ)・・・自分の体験や経験を通して体得した知恵
もちろん、一番高いレベルの知恵は”修慧”です。
人が納得したり、人を説得したり、誰かにパワーを与えたり、
そんな力が修慧にはあります。
しかし、”教えてくれる場所やサービスや人が増えすぎたこと!!”により
その環境にどっぷりつかっている人間には、昔の環境で生きてきた人よりも
修慧を体得する環境や時間やチャンスを実は失っているという一面もあるのです。
誰かとお話しをするときに、話していてその人が魅力的で勉強になるな~と
思えるとき、その人は、修慧で私に何かを伝えようとしてくれている時です。
その逆で、ちょっと内容が浅いな~と感じてしまう人は、
聞慧レベルで人と会話している人が多いでしょう。
ちょっと意地悪かもしれませんが、そんな人に「それはなぜ?」と何回か
質問をしていくと、話が止まって何も話せなくなるか、しどろもどろになりますよね
『わかったつもりが一番危険!!』
後輩たちにはそんな言葉でよく注意していましたね。
そのチェックのために、何回か「なぜ?」と繰り返すのが自分のやり方でした。
ちゃんと自分で考えて答えを出したり、修慧のレベルまで磨きこんでいない場合、
ほとんどがわかったつもりレベルですよね
そんなレベルでお客様の前で説明するのはプロ失格ですから、リーダーとしては
その前の品質管理をしなければなりませんしね
教育現場やスポーツなどの活動で子どもたちに指導をするとき、
親として子どもに何かを伝えるとき、大人として子どもたちに何かを伝えるとき、
どこかから拾ってきた情報を伝えているだけの自分に満足していていいのか・・・
自分としては、上記の問題提起に対する答えは”NO”です
このブログもなんで、時には2時間以上もかけて書いているのか??
聞慧を思慧に、思慧を修慧に転換していくための方法の1つだと考えているからです。
書いている間に、自分の頭を使って整理する時間を自分に課す必要があるからです。
職業柄、聞慧だけしかもっていない人間だったら、確実に大切な家族を養えないと
思っているからです。
最近、何回かこのブログでご紹介している脳科学と心理学のスペシャリストの
西剛志さんは、聞慧に意味づけをして思慧にするプロセス、思慧に自分の体験を
折り重ねて修慧にしていくプロセスが、
人間の”直観力”を育成していると教えてくれました。
修慧の行き着く先は
”直観”で正しく物事が判断できる人間へと成長すること
なのでしょう
これについては、船井幸雄先生も、かつて若手のコンサルタントに・・・
店に入った瞬間に、その店の良さ悪さ(伸びしろ&改善点)がわかるようにならないと
一人前の経営コンサルタントとは言えない・・・とよくおっしゃっていたように思います。
そう考えてみれば、何か急に想定外なことが起こったり、マニュアルとは違うことが
発生したりしたときに、バタバタして何もできない人、フリーズして何もしようとしない人
が増えているような気もします。
もしくは、そんな類の相談が増えているような気もします。
それって、『先回りの落とし穴』&『教えてもらう場所の罠』によって
もたらされた環境に侵された人たちのある意味かわいそうな姿なのかもしれませんよね
それを見て、「育ってきた環境が違うから・・・」と言う人がいるのでしょうが、
その差は、前回と今回のブログで書いたようなことから生まれているのではないかと
私は思っています。(もちろん、その他にもたくさんの影響はあるでしょうけど)
教えてくれる場所がたくさん増えた現代の中で、
その環境と賢く付き合っていくことが、各人に問われているのではないでしょうか。
便利なもののメリットとデメリットをちゃんと理解したり、多面的にとらえたりしながら
上手に使い分けしていくことが、人としての賢さや成熟度だと自分は思いますし、
そんな部分に、人間の品性や感性の差が見え隠れするように思っています
ゆとり教育からの決別宣言もよいのですが、
カリキュラムやプログラムや時間のかけ方の問題の前にもっと重要なことがあるの
ではないでしょうか。
世の中の環境変化や進化の中で、子どもたちが成長して自立していくために
どんなことがが足かせになっていて、それを克服するための指導者や先生が
どんなことに注意して、子どもたちに接していくか?
どんな大人こそ、指導者にふさわしいのか?
そこにフォーカスしながら、決別宣言後の改革を進めないと
あまり変わらないかもしれませんね。
『先回りの落とし穴』、『教えてくれる場所の罠』にはまらないように
賢く環境を使い分けして、育ちの差をマイナスではなく
プラスにもっていける人が増えるといいですよね
「育ちの差シリーズ」ということで、自分の見解を少々整理して書いてみましたが、
お読みいただいた方になんとなく思いが伝われば幸いです。
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