あらゆることに敬意を払う意味 ~罪悪感の蓄積からの解放~
- 2016.07.18
- MESSAGE
皆さん3連休はどんな過ごし方をされたのでしょうか
私は横須賀にある自分の実家に家族4人で行ってきました
3ヶ月の長男は初めての訪問。
まあ、本人はどこだかまだわからないでしょうけどね~
皆で買い物に行ったり、食事したり、お墓参りに行ったり・・・
そんな感じであっという間に時間が過ぎて、ようやく今日は自宅に戻って
ちょっと子どもが寝ている合間を使ってブログ更新タイムです
『あらゆることに敬意を払う』
最近、誰かの行動や言動にいらいらしたり、想定外の事態に直面して
気持ちが動揺してモノや人にあたりたくなったときに
心の中で自分が唱えたり、意識している言葉(信念)になっています
このブログを随時お読みいただいている人ならその意味は
おわかりいただけると思います。
よくわからない人のために、その内容が記載されているブログ記事は
以下をクリックしてご覧ください。
『”すべての夢は実現可能だ” ~デュアルデザイン・コーチング資格講座①~』
こちらの”ウィッシュリリースバンド”
自分の心の声に対するチェックシステムとして、戒めの意味で
未だにつけています さすがにバンドのゴムが伸びてきて
しまったので、別のものに付け替えようかな~と考えています
人として、相手やモノに敬意をは払えない行動や言動をしてしまう
ときは、どうしてもあるでしょう。
「あいつせいでなんで自分がこんな破目に・・・」
「ふざけるな・・・」 「むかつく・・・」 「仕返ししてやりたい・・・」
そんな言動とともに、その人にあたったり、モノにあたったり、
身近な誰かにあたったりしてしまうときがある
2歳の娘を見ていると、自分のイメージ通りにならなくて、いらいらして
モノにあたっているシーンをよくみかけることがありますね
まあ、まだ子どもだからしょうがないと思いますが、これを大人に
なっても同じようにやっている人も多いかもしれませんよね~
そんな行動や言動をして、何かや誰かにあたっているとき、
その対価として本人が意識している感覚の中では
「スカッとしている自分」がいるのかもしれません
しかし、自分はそうではない重要な要素があるのかもしれないと
考えています。それは・・・
『無意識に蓄積されているプチ罪悪感』
人間は、本来小さいときに、まわりの人達から少なからず
善悪の判断や良い人と悪い人の違いといった認識などの
教育やインプットはされてきていると思うのです
もちろん、その人が置かれた環境による差異はあると思いますが、
日本においては、ある程度のレベルは維持されていると信じています。
(最近は、そうでない場合も増えているとはしても・・・)
そんな教育やしつけやインプットの蓄積は、その人の心の中や底に
必ず残っているはずだと思うのです
そうすると、善悪の判断でどちらかと言えば、悪の判断をしてしまったとき、
良い人と悪い人の認識でどちらかと言えば、悪い人の行動や言動を
してしまったとき・・・
つまり、相手やあらゆることに敬意を払えていない行動や言動を
してしまったときに、意識している部分とは別に、無意識の中に
『プチ罪悪感』というものが蓄積されていっているのかな~と思うのです
実は、そういう行動や言動をし続けてしまうと、自分の意識とは裏腹に
無意識レベルでは、罪悪感で埋め尽くされていく破目になる。
それに気づいていない人は、一瞬スカッとすることが、自分にとって
好都合だと誤認してやり続けてしまうのではないでしょうか
例えば、親にとっての子育てなんかも一つの事例として挙げられるでしょう
特に乳児期の子どもは、当然言葉は通じませんし、意思疎通も
大人の都合のよいレベルではまったく機能しませんから、そんなシーンの
連続で、両親はどうしてもイライラが募る場面も増えるでしょう
当然、我が家も真っ最中であります
そこで、子どもに直接はあたってしまうときもあったり、それはまずいなと
セーブはしたものの、その気持ちをおさめるために、モノにあたったり
まわりの人にあたってみたり・・・
そんな中でも、実はその人の中に「プチ罪悪感」が蓄積されていっている
そして、その連続が重なりすぎてしまうと、いつのまにかいわゆる”心の病”に陥ったり
自分自身を見失って制御できなくなっていき更なる悪循環に陥る・・・
そんな事例も多いのかな~と思いますね。
そうやって考えてみると・・・
『相手の世界観に敬意を払う』
『あらゆることに敬意を払う』
それを日々意識して行動や言動に気を付けて、継続していくことは、
人間にとって、自分を良い状態に維持したり、コントロールするための
とても重要な要素ということでしょう。
心の奥底や無意識レベルで、「罪悪感」を強く感じながら
日々生活していくのは、実はすごく心身によくない状態であることは明白です。
一度の敬意を払えていない行動や言動では、そこまでにはならないでしょうが、
それが、何年も幾たびも重なっていくと、大きな塊になっていくのではないでしょうか
一見、気勢をはっているような人、強気に見えるような人、
つまり強がっているような人でも、実は無意識の中に「罪悪感」が蓄積されている
人は多いような気がしています。そんな人の相談にのったり、コーチングをしたりすると、
実は”すごく自信がない”なんてことがあるんですよね~
他の言い方をすれば、自信のなさを悟れらないように、パフォーマンスでごまかそうと
努力している人、ということになるでしょうか
「強気な自分は意識していても、実は無意識に人はコントロールされている」
そういうことなのかもしれないな~と最近よく考えさせられますね。
自分ではそんなに意識できていなくとも、無意識の自分がちゃんと
善悪の判断をしているし、良い自分と悪い自分の認識をしているのではないでしょうか。
そういう意味では、人間は奥深いと思えます
このような見解はあくまでも、私の一つの考え方に過ぎません。
しかし、そうやって信じて、行動や言動を自分なりに良い方向にコントロールすること
はとても重要だと思いますよね~
そんな重要な視点や人生のヒントを、ズバッと『敬意を払う』という言葉に集約して
教えてくれた西先生はやはりすごい人だな~と思い、あらためて感謝ですね。
『あらゆることに敬意を払う意味』
= 『罪悪感の蓄積』からの解放
そういう公式が成立するというのが私なりの仮説となります。
人間は、多少の例外はあるとしても、多くの人が善悪の判断や良い人悪い人の
違いの認識はちゃんと持っていると思います。だからこそ
『相手とあらゆることに敬意を払えている自分』だったら、意識的にも無意識的にも
自分自身に敬意を払えている自分だと認識できるのでしょう
相手を大切にすることが、自分を大切にすることであり、
自分を大切にすることで、相手も大切にすることができる。
それを実現できているとき、人は充実した時間を過ごしている証でしょう
今日は、最近なんとなく気づいてしまったことをお伝えしてみました。
共感していただける方がいらっしゃるとうれしいです